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時折、調べ物のために、慶応の三田図書館を訪れることがありますが、いまの時期、 就職活動の真っ最中であるせいか、リクルートスーツ姿のおにいちゃん、おねえちゃん が、いやがおうでも目につきます。 私らの頃は、就職協定という縛りが、まだ効いていましたので、学生の就職活動が本 格化するのは、ゴールデンウィークが終わってからでしたが、早い人は今は3年生の秋 から動きだすということです。ちょっとシンジラレナイという感じですね。 自分の学生時代は、バブル前段期の景気のいい時代でもあり、「ジャパン・アズ・ナ ンバー1」の掛け声が席巻していたので、私のような文学部の人間でも、就職先がない 、ということはまずありえませんでした。どこかしら会社を受ければ、間違いなく引っ 掛かるというキラクさがありました。
そういう時代背景もあったのでしょうが、仏文科3年のときに所属していた、サルト ル研究の永井旦教授のゼミで、「ポスト・モダン」と称されるフランスの現代思想家、 ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリの「アンチ・オイディプス」をテキストにし ていたのを思い出します。 夏休みには軽井沢に合宿に行って、ゼミのおねえちゃんとテニスをしたり、夜はコン パで酒を飲んだりと、勉強をしに行ったというより、遊びに行ったという方が正確です が、ハッキリと言って、アンチ・オイディプスを読んでも、その難解さのあまり、さっ ぱり理解できませんでした。それは、私だけでなく、ゼミの人間も、教授も同じだった と思います。
1968年のパリ5月革命を機に、フランスの政治、社会、文化は大きく変わったと いいます。特に「ポスト・モダン」と称されるフランス現代思想は、この五月革命後、 雨後の筍のように出てきます。 しかし、こうしたフランス現代思想は、原典そのものがかなり難解であるのに加えて 、翻訳者の日本語能力の欠如により、とても私も含めたフツーの人たちが気軽に読めた 代物ではありません。特に前出のアンチ・オイディプスがその典型でした(あと、例え ば、68年以降のフィリップ・ソレルスの小説がそうですね)。読んでいて、いったい 何を言いたいのかがさっぱりわからないのです。
「明晰ならざるもの、フランス語にあらず」(Ce n’est pas clai r n’est pas francais.)のことわざにあるように、いたずらに 難解さを弄ぶことは、本来、まったくフランス的ではありません。 しかし、当時の私のような、仏文科に籍を置いていたフランスかぶれは、「フランス 現代思想」「ポスト・モダン」というだけで、そういった存在を難解であるがゆえに、 盲目的にありがたがり、無批判に崇め奉る癖がありました。これなども、一種の「カル ト」と呼んでいいかと思います(笑)。 つまり、世の中から遊離した象牙の塔で、選ばれし自分たちは、何かスゴイことをや っていて、それが「フランス」という衣をまとっているがゆえに、何だかカッコイイこ とをやっているんだという、自己満足というか、意味不明な陶酔に浸っていたわけです。
ランスを見る視点にも、強固として存在しているようです。要は、ドゥルーズ、ガタリ といっても、エルメスやシャネル、クリスチャン・ディオールといったファッションの アイテムと何ら変わらないのです。 ただ、こうした「ファッションとしての現代思想」が成立しえたのは、当時の時代背 景もあるかもしれません。東西冷戦のワクの中、アメリカ様の核の加護のもと、日本は ただひたすらGNPの上昇にだけに、目を向けていればよかったのですから。これもそ んなノー天気な時代であったゆえの、まさに「時代の産物」といえるかもしれません。 逆にこういうご時世だからこそ、身体性を喪失した、虚飾としての現代思想をリスト ラし、ナマナマしく、ウサン臭い現実との関わりのなかから、もう一度、自分のコトバ で己の思想を紡ぎだしていく切実さを実感します。そうなったとき、はじめて、思想は ファッションという虚飾を剥ぎ落とし、「実体」として、ひとりの人間の中で血肉化さ れていくような気がします。 |