『いま、政治は何をなすべきか』(加藤紘一著)を読んで
03・2・19

 最近、加藤紘一氏の『いま政治は何をすべきか――新世紀日本の設計図』(講談社、

1999年)を読む機会がありました。

 加藤氏といえば、ちょうど、一昨年の参院選で、白川新党からの出馬を、白川勝彦、

宮崎学の両オッサンに執拗に口説かれ、私自身はゼッタイにイヤだったため、その「身

代わり」として、氏を自民党から離党させて、出馬させれば、票獲得につながるという

ことで大騒ぎしていたなあと、まさに“泥縄式”そのものだったことを、懐かしく思い

出します(笑)。

 んで、その時点では、ハッキリ言って、加藤氏の政治理念や思想という点について、

細かいところまではわからず、とりあえず、「リベラルなスタンス」を持っているとい

う程度でした。

 ところが、この本を読んでびっくりしました。

 時期的にはおそらく、99年9月の自民党総裁選に合わせて出版されたものですが、

この人も、東西冷戦崩壊、バブル崩壊以降における、日本の自由と民主主義ということ

を、真剣に考えているということが、よくわかりました。

 氏が日常の生活に足をつけて、低い目線からいまの政治を論じているところは、本を

読めばすぐにわかりますが、それ以上に私が感銘を受けたのが、自らの過去の過ちを率

直の吐露し、読者(=主権者)に詫びている点です。

 それは96年10月の総選挙で、自民党が過半数に及ばない239議席しか取れなか

ったが、そのとき、新進党の連中らに声をかけて、最終的に過半数に持ち込んだ戦術を、

率直に「選挙で示された民意をないがしろにしてしまったという点で、間違いだった

かもしれない」と述べています。

 おそらく、本人は幹事長として、「何とか、安定した政権運営に持ち込むため、過半

数を確保したい」という思いと、「こんなやり方をやって本当にいいんだろうか」とい

う逡巡があったのだと思います。つまり、こうした安易な多数派形成が連立与党間の緊

張感を削ぎ落とし、それに対する根本的な反省のなさが、その後の「自・自・公―自・

公・保」につながっていることが、はっきりと読み取れるのです。

 さらには、98年参院選の自民党惨敗は、ある意味で橋本行革への、有権者の批判で

もあったわけですが、その点についても、「私が犯した20年前と同じ過ち」として、

79年の大平内閣時代の総選挙で、敢えて一般消費税導入を公約に掲げて、負けたとき

の体験を挙げています。

 そこで、大平首相が「正直に話せば国民もわかってくれるというのは、一種の傲慢さ

でもある。実際には国民にわかってもらう努力が足りなかったのだ」と、頭を垂れて呟

いたことを引き合いに出し、その20年後に、はっきりと「私自身が同じ過ちを犯した」

と言い切っているのです。人間として、こんなにマトモな人だと初めて知りました。

 まあ、3期も与党の幹事長をやっていれば、それに寄ってたかってくる有象無象も当

然いくらでも出てきますから、叩けばホコリも出てくるでしょう。そういう光景を見て

いると、私などは、「濁」を飲み込みながらも、「清」を求めることの、つまり、生き

ることの根源的な“矛盾”というものを、思わず考え込んでしまいます。

 特に、自・自・公以降、白川氏もそうですが、現体制をシャープに批判していたリベ

ラル派の政治家が、いずれも秘書の問題で“刺され”て、撤退を余儀なくされた現状を

思うとき、非常に無念の思いが募ります。

 しかし、日本語の「危機」とは、その名の通り、「クライシス&チャンス」なので、

人間に何かを考えさせ、また、浮上していくいい機会なのだと思います。

 思想、政治理念、政策面において、加藤紘一、白川勝彦のオッサンは文句のつけよう

もなく一致していますし、加藤氏が全体的に俯瞰して、バランスよく物事を進めるタイ

プなのに対し、白川氏は一直線に突っ込んで、ガンガンとケンカができるタイプなので、

この二人がくっついたら、大きな力を発揮をできると思います。

 とりあえずは、二人の議席回復が第一ですが、繰り返しになりますが、その流れの延

長線上に、「新党」ということがあってもいいと思います。

 最近、「政党不信」ということから、選挙では「政党隠し」や「無所属出馬」が一種

のハヤリのようですが、自治体の首長ならまだしも、国政選挙では違うと私は思います。

議会制民主主義という形態を取る以上は、政党が一つの基本であり、出発点ですし、

そういう新しい流れの中から、日本の政治を再構築していってもいいのではないか、と

いう気がします。


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