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昨年6月の本サイトで、「三井環氏と私の思い出」ということで、「三井環不当逮捕」 のことを取り上げましたが、たまたま昨日(2月20日)、東京はお茶の水の中央大 駿河台会館で、三井氏の講演会があり、私も傍聴に行ってきました。 講演で三井氏はいきなり、「私が悪徳検事の三井環です」とギャグをかまして会場の 笑いを取ってから、本題に入っていきましたが、そこでは聞くもおぞましい検察最高首 脳の頽廃ぶりが明るみにされました。そこで、三井氏が昨日の講演で披露したネタをこ こで明かすとともに、今回はさらにもう少し踏み込んで、法務・検察ぐるみでの「デッ チ上げ」であるこの事件の背景を解説していきたいと思います。 いやあ、この事件は知れば知るほど、トンデモナイというか、この「自・公全体主義 政権」であるがゆえに、出るべくして出た権力中枢の恥部という思いを強くしています。 講演のタイトルは「戦後最大の検察スキャンダルとメディアの責任」ということで、 問題の本質はズバリ、これにすべて集約されていますが(笑)、で、私は講演を終えた 三井氏と握手を交わし、しばしの再会を楽しみました。 会うのはちょうど私が毎日新聞の高知支局時代以来ですので、ほぼまる13年ぶりで す。しかし、三井氏の顔だちあの当時とほとんど変わりがなく、顔色のツヤもチョーよ くて元気マンマンだったことに私もうれしかったのですが、「いやー、古川君も全然、 かわっとらんなあー」と三井氏に言われて、何と感じていいのやら(#未だにワシは大 学生と間違われるしな)。
じつは、講演に向かう前に、三井氏が不当逮捕から325日間の拘束を経て、保釈後 の昨年5月に光文社から刊行した『告発! 検察「裏ガネ作り」――口封じで逮捕され た元大阪高検公安部長の「獄中手記」』を買い求め、しばし、読みふけっていました。 三井氏とは、ちょうど私が記者1年目である毎日新聞の高知支局で事件担当をしてい たときに、氏が高知地検の次席検事だったこともあって、しょっちゅう官舎に夜回りに 行ってネタを取っていたという思い出は昨年6月の本サイトで書きましたが、なぜ、彼 が検事を志したかということを、この本を読んで私は初めて知りました。 本に書かれてある、三井氏が交通事故に遭って九死に一生を得た際に、輸血が原因で 肝炎にかかり、酒が一滴も飲めなくなったということは、既に当時、知っていましたが でも、「どうして検事を志したのか」というところまで、なかなか夜回りで話すこと はありませんでしたので。
んで、三井氏が検事を志した動機が「河井信太郎の生き方が好きだったから」という のを聞いて、「ああ、やっぱりそうだったのか」と、「なるほど」と改めて納得した次 第です。 「河井信太郎」という人は、まさに「知る人ぞ知る人物」で、「特捜の鬼」と言われ ていた検事です。そもそも捜査の根底に「何が真実であるのか」ということを愚直に追 い求めて、それを実践した人です。 昭和電工事件、造船疑獄といった、戦後の名だたる大贈収賄事件を摘発し、その膨大 な帳簿の中から、サンズイ(=汚職)に至るカネの流れを掴んで、事件にもっていく手 法を編み出し、東京地検特捜部の「帳簿捜査方式」の産みの親ともいわれています。 たまたま昨日の講演が、中央大のお茶の水キャンパスのあった場所で行われたのです が、三井氏もその中央大の出身で、退官後の河井信太郎が出身校の中央大で教鞭を取っ ていたため、学生時代、河井氏の授業を取っており、その薫陶を受けたことが、検事を 志した動機にもなっているといいます。 「生まれ変わっても、また、私は検事になりたい」 昨日の講演の中で、私の心にいちばん響いた彼の言葉でした。
法務・検察内部では、戦前の思想検事の流れを酌み、時の政権中枢と癒着する「永田 町派(公安派)」と、敢然と権力中枢の汚職に切り込んでいく「現場派(捜査派)」の 二つの流れがあり、この河井信太郎とは、まさに「現場派のエース」でした。 そこで有名なのは、昭和20年代に起こった造船疑獄で、佐藤栄作、岸信介ら与党の 超大物議員が捜査のターゲットになりますが、当時、自由党幹事長だった佐藤栄作は、 犬養法務大臣の「指揮権発動」によって、捜査がストップし、逮捕を免れます。 それを現場で指揮していたのが、河井信太郎だったのですが、こうした「上からの圧 力で事件を潰された」ことに、河井は涙を流して、膝を叩いて悔しがったといいます。 こうした「永田町派VS現場派」のストラグルは、その後も綿々と続いてきて、現在 に至っていますが、法務・検察の戦後史で見た場合、じつは「99年体制」の確立と相 まって、こうした「現場派」の息の根が完全に止められてしまった象徴が、じつは今度 の「三井環不当逮捕」であるようにも思います。 確かに、今度の「三井環不当逮捕」は、それ自体がそもそもトンデモナイ人権侵害で あるのは間違いないのですが、99年以降の「政局的文脈」で見た場合、この事件は本 当に重いというか、根の深い問題を秘めています。今回はそこにも目を配らせて、論じ ていきたいと思います。
そこで昨日の三井氏の講演に戻りますが、調活(調査活動費)という名の裏金づくり を検察が組織ぐるみで行っていたということは、ほぼ大体の人は知っていると思います ので、問題は、その実態を三井氏が大阪高検公安部長という現職のまま、内部告発をし ようとしたところ、最高検検事総長の原田明夫とその2、3人の側近が共謀して、三井 氏を口封じのために不当逮捕にもっていったということも、既によく知られていること だと思います。 最近、北海道警で署長も勤めた元幹部が実名でケーサツ内部の裏金づくりの告発を行 ったことで、ケーサツという「対岸」で裏金問題というボヤが上がってきているようで すが、ケーサツと法務・検察の裏金づくりで決定的に異なる点(架空の情報提供者をデ ッチ上げるなどの手口はクリソツですが)とは、ケーサツは上はサッチョウから下は所 轄警察の係長まで、全体的に満遍なく「裏金づくり汚染」が蔓延していましたが、その 点、法務・検察だと、そうした裏金の恩恵にあずかれるのは、地検では検事正、高検で は検事長、最高検では検事総長と、いずれも組織のトップだけだったというところです。
んで、その調活の金額(年間)は、東京地検で3000万円、大阪地検で2000万 円、それ以外の中小地検で400―500万円ということで、実際、三井氏がその調活 の裏金づくりの全貌を知ることになる高知の場合だと、年間400万円で、検事正の判 断ですべて好きなように使いまくれるってことで、法務省や高検の幹部が視察に来たと きに、接待したり、酒の好きな人は夜の街で酒を飲み倒したり、ゴルフが好きな人はそ のカネでゴルフ三昧に明け暮れるといったふうに、まさに「裏金」ですから、検事正( 検事長、検事総長)の独断で好き放題に使えるというわけです。 調活とはもともと、公安マターにおける過激派対策と称して、その調査のために使う ために設けられたもので、戦前に思想検事がいたころはちゃんとそういう本来の目的で 使っていたようですが、戦後のいつの頃かわかりませんが、そうした「過激派対策」は 表向きだけになってしまい、検察トップが使える「裏金」として、代々、受け継がれて きた「既得権」になってしまったとのことです。 ところが、外部に対しては、ナントカの一つ覚えのように「捜査の秘密」をタテに (このあたりの隠し方もケーサツとクリソツですが)、会計検査院のメスも入ることがで きない、まさに「聖域」だったのです。
そこで面白かったのは、会場から「検事正クラスなら、手取りの年収が軽く1000 万円を越えていて、カネに不自由しているとは到底、思えないのに、どうして、そんな 裏金づくりに手を染めていたのか」という、何とも素朴な質問が出たことでした。 一つには、そうした裏金づくりが内部では「当たり前」として行われていたため、 「おかしい」という感覚がなかったこともありますが、それがまさに「既得権」の「既得 権」たるところでしょう。 そこで、三井氏が言っていたのは、こういうことです。 「警察だったら、裏金づくりの問題が表面化した段階で、幹部が謝罪して、処分者を 出している。ところが、法務・検察はこのごに及んでも、まだ、『裏金づくりは事実無 根』と言い張っているんです。だって、もとは血税ですよ。外務省などの他の役所の人 間がやったら詐欺で摘発されるのに、まったく同じ犯罪を犯していても、自分たちだけ は刑事責任を問われることがない。おかしいですよ。もし、私が本で書いていることが 『事実無根』であるとすなら、明らかな名誉毀損だ。名誉毀損でも誣告罪でも早く私を 逮捕すればいい」
さて、そこで三井氏が調活の内部告発を行ってきたことを、時間軸を追って見ていき ますと、まず、99年1月に調活に関する「正義を求める検察組織の一員から」という 内部告発文書が大手紙や民主党の菅直人、国民会議の中村敦夫らの国会議員に出回った ことで、これをきっかけに法務・検察の内部であわてて“綱紀粛正”を目指す動きが出 てきます。 というのは、そこに書かれていた内容が「真実」だったからですが、じつは、この「 正義を求める検察組織の一員」というのが、当時、名古屋高検総務部長の三井氏だった のです。 そこで、三井氏によれば、現場サイドでは「これを機会にこうした悪習は止めて、調 活は廃止しよう」という声が大勢だったにもかかわらず、法務・検察のトップは、ここ で調活を減らしたり、返上したりすると、大蔵省に睨まれて、「んじゃあ、今まで何に 使ってきたんですか」と突っ込まれるため、「少しずつ、減らしていこう」ということ で、そういった指示を口頭や文書(調活マニュアル)で行います。 しかし、法務・検察の首脳は「ここでこの問題を大新聞が書いて社会問題になったら どうしよう」とビビリまくっていましたが、その矢先に、あの「則定愛人スキャンダル」 が、99年4月発売の「噂の真相」(同5月号)で発覚します。 これは朝日新聞が1面トップで後追いしたこともあって、当時、東京高検検事長で、 「次期検事総長はまず間違いない」と言われていた則定が、何と、その3日後に辞職す ることでケリがついたのですが、三井氏によれば、彼が辞めた「真の理由」とは、愛人 問題というチンケなものではなく、「このまま彼が辞めなければ、調活の裏金問題が波 及してくる」ということからの、法務・検察首脳による“妥協の産物”だったといいま す。
それゆえ、99年度は各地検、高検で知恵を絞って(笑)、著名人を呼んで講演した り、検察OBを使って何とか“正当”な目的で(というより、それまでは架空の領収書 を切っていたのを、いちおう実在する名前の領収書を切るようになっただけですが)、 使い切ることができたわけですが、2000年度に入ると、「喉元を過ぎれば熱さを忘 れる」のことわざ通り、徐々に元に戻ってきたといいます。 そんな最中に、99年7月、三井氏は名古屋高検総務部長から、大阪高検公安部長へ 異動になります。 そこで、三井氏と加納駿亮との確執を説明しますと、加納駿亮は三井氏が高知地検次 席検事(88年4月〜91年3月)時代に仕えた3人の検事正のうち、いちばん最後の 3人目の検事正です。
私は88年8月1日付けで毎日新聞高知支局に異動になって、91年4月まで同支局 にいたので、三井氏とはまるっきり重なっているのですが、ただ、最後の3年目(90 年4月以降)というのは、サツ回りを離れて、行政担当になっていたので、検察庁へは 足が遠のいていました。 そのため、最初の2人の検事正はチョー仲良しだったこともあり、よく官舎にも夜回 り(=夜遊び)にも行ったのですが、この3人目の加納というのは、確か1回くらいあ いさつで検事正の部屋に行ったことは覚えていますが、私が事件持ち場という担当を離 れていたこともありますが、前2人の検事正と比べたら、ムッツリというか、愛想がな いというか、陰気な感じだったのを覚えています。(と、ここまで書きましたが、こ れを書いてから三井氏の著書で確認したところ、加納が高知地検の検事正を勤めていた のは、95年から96年にかけてでしたので、ここの部分を削除します。私の記憶違い で、3人目の検事正は別の人です)
その加納との確執のきっかけとは、96年11月に京都地検が着手した京大付属病院の 臨床試験を巡る贈収賄事件でした。 こういう独自捜査というのは、高検に報告し、高検の指示を仰ぎながら着手するので すが、この事件を大阪高検で指揮したのが、当時次席検事だった加納でした。 んで、このとき三井氏は大阪高検のヒラ検事で、京都地検の担当だったのですが、着 手の際、出張で姫路に行っていて、捜査内容の報告を聞いておらず、戻ってきたときに は、既に講師が逮捕されていたのです。 ところが、三井氏が資料に目を通すと、内偵不足が明らかで、聞けばその日に教授も 令状を取って、逮捕する予定になっていたといいます。その結果、何とか三井氏の進言 によって、教授逮捕はストップさせるのですが、何とそのことを加納が根に持って、そ の後、人事でいろいろと三井氏に冷や飯を食わせようとしたというのです。
というのは、三井氏は高松地検次席検事時代に、香川医科大などにおける新薬の臨床 試験を巡る贈収賄事件を独自捜査で摘発していて、1年がかりで裁判でも有罪を勝ち取 っていた経験があったため、「これでは公判維持は無理」と判断したわけです。 ここの経緯について、三井氏は昨日の講演でも少し触れていましたが、京大病院の事 件では、カネの趣旨がチョー曖昧というか、「論文掲載の謝礼」という名目で出ていた ため、賄賂姓がなかったとのことです。 そういえば、こうした新薬の臨床試験をめぐる贈収賄については、確か三井氏が高知 地検の次席検事時代にも内偵していて、私がしょっちゅう、次席検事の部屋や官舎に遊 び(=取材)に行ってたときに、「資料だけでこんなに分厚くて、それを読んで分析す るだけで一苦労なんや」とこぼしていたのを覚えています(結局、高知のときは内偵だ けで終わり、着手にまで至りませんでしたが)。
京大病院の事件は、逮捕した講師は処分保留で釈放され、ほとぼりも冷めて、世間の 関心もなくなった97年3月頃、起訴猶予処分としました。 本来、独自捜査で失敗したのであれば、検察側もそれなりの責任を取って、処分を科 すというのが「信賞必罰」という組織運営の鉄則です。 ところが、加納はその責任を取るどころか、自らの判断ミスを隠すため、当時の京都 地検次席検事と特別刑事部長を異動で昇格させてしまったというのです(ちなみに、三 井氏も高松地検次席時代に、捜査で同じように失敗したとき、処分を受けていると手記 の中で明かしています)。
つまり、三井氏の“悲劇”の始まりは、本人が捜査官として優秀でありすぎたたとこ ろに、無能な上司に仕えてしまったのが運の尽きです(笑)。 まあ、そういう無能オヤジは潰れかかっている会社組織には、どこにも掃いて捨てる ようにいますが(特に私のいた大新聞がそうでした)、要するに、そういったキャパの ないバカオヤジの嫉妬、イヤガラセ、イジメに三井氏が運悪くターゲットになってしま ったということでしょう。 こういう状況を見て、三井氏は「関西検察はアカン」と(検察庁も、私のいた毎日新 聞と同様、東京と大阪で組織的には大きく二つに分かれています)、当時の大阪高検の 検事長に「東の方に出させてほしい」と申し出たところ、98年4月に名古屋高検の総 務部長に転出することになったということです。 そのときも、法務省サイドは高松高検の次席検事のポストを提示していますが、関西 検察の実力者として君臨していた加納が「NO」と言ったため、蹴られたという経緯が 、三井氏の手記『告発! 検察「裏ガネ作り」』には出ています。
んで、三井氏は99年7月、その名古屋高検総務部長から大阪高検公安部長に異動に なりますが、ここでもまた加納の横ヤリが入ります。 本来、高検の公安部長の給料というのは、「検事2号棒ポスト」なのですが、三井氏 は「3号棒」のままに据え置かれたというのです。これは、地検の特捜部長より下で、 三井氏の知る限りでは、「そんなことはいまだかつてない」とのことです。 そこで、三井氏の主張はこうです。 ――つまり、それは、給料の多い少ないを問題にしているのではない。これは検事と してのプライドに関わることだ。私は河井信太郎に憧れて、検事が好きで検事になり、 独自捜査に命を賭けてきた。その進言で京都地検は捜査に確かに失敗したものの、「教 授逮捕」という最悪の事態を免れることができたのであり、それは検察の信用を守った ことになる。そこでの捜査の失敗の責任は加納駿亮氏にあるのにもかかわらず、私を逆 恨みし、人事権を乱用し、挙げ句の果ては、棒給まで抑え込んだ。これは私個人に対す る侮辱ではなく、高検公安部長というポストに対する侮辱でもある、と。
こうした三井氏の姿を見ているとき、私が新聞社を辞めるにあたり、社内で取った行 動にあまりにも酷似していて、びっくりするほどです。 まあ、私の場合は、毎日新聞と東京新聞と合わせて計10年にも満たりませんが、三 井氏の場合は、30年も組織の中にどっぷりと漬かっていて、それなりにラインに乗っ かって来ているなかで、よく、ここまで「志」を維持できいたと、驚くほどです。 こうした加納駿亮に対する私憤(というより、既にこの時点で、かなり義憤、公憤が 相当入っていますが)から、三井氏は加納の調活裏金づくりを告発するに至ります。 01年1月10日発売の「噂の真相」(01年2月号)に、「ある検察OB」の名で 「大阪地検の加納駿亮検事正が高知地検検事正時代に調査活動費を不正に流用し、遊 興費に充てていた」との内部告発記事が掲載されます。ここに出てくる「ある検察OB」 が、じつは大阪高検公安部長の三井氏だったのです。(この稿つづく) |